2005年8月28日、宝塚市内で、空中サーカスは「夏の終わりの朗読会」を開催しました。

 最初は、荻原裕幸さん(公式ウェブサイト:デジタル・ビスケット)の短歌を朗読したい!という座長のファン心理から始まった小さな企画だったのですが、そこは凝り性の空中サーカス。準備期間4か月の、とっても真剣に取り組んだイベントとなりました。

 以下は、その「夏の終わりの朗読会」についての劇団公式レポートと、主要参加者3名による個人レポートです。

「夏の終わりの朗読会」劇団公式レポート

1.「場」の構築

 たかが「朗読会」されど「朗読会」。
 その日、いきなりはじめての会場に入り、練習もせずに持参したテクストを読み上げる。そんなことでいいのだろうか? たいがいの朗読イベントは、そのレベルであるように見受けられる。そんな低レベルなイベントで、お客様からお金を頂く訳にはいかない。
 朗読以外にも、やるべきこと、やれることはある。朗読だけすればいい、というわけではないのだ。

*構成について

  1. はやりのオープンマイク形式 → しろうとのど自慢大会になる
  2. ひたすら短歌、短歌、短歌の羅列 → 眠い……
  3. 休憩時間がない → タバコを吸わせてくれ!

というわけで、短歌に興味のない方にも楽しんでいただけるように、他のジャンルの文学を混ぜることと、テクニックの解説をするアフタートークを入れることにした。

⇒作成したプログラム
第一部:
荻原さんの短歌がメインだが、エッセイも混ぜておく(音遊びが楽しい「ポポポポニアに御用心」、また、記号短歌が適度に入っている短歌群を選んだ)
第二部:
楽しく聴ける短編小説(中島敦の「文字禍」と芥川龍之介の「アグニの神」)
アフタートーク:
朗読のテクニック開陳(ただし、ディスカッションはしない)

*会場について

 公民館の会議室の蛍光灯の下や、薄暗いライブハウスの500Wスポットライトの中で朗読するのは、絶対に嫌だった。客席とステージの距離が近く、マイクを使わないでよい広さの、リラックスできる居心地の良い空間はないだろうか。

⇒会場は「ピピアめふ」の「和風ホール」
ネオモダン和風空間。パステルカラーの変形窓が、壁の全面を覆っていて、室内は非常に明るい。
座卓があり、座椅子があり、色とりどりの座布団。かわいい。

*BGMについて

 開場から開演までのBGMも「場」を構成する要素として重要である。
 今回は上質感を意識してクラシックを──、ただし適度なくつろぎ感も必要なため、交響曲やオペラ等の劇的な展開を見せる曲調のものは避け、音数が少ない落ち着いた雰囲気のCDを何枚か選んでおく。実際に使用する楽曲は、当日会場に入ってから、天候等の状況をみて決定することに。

*おまけ

 上質の文学サロンには、お茶とお菓子は欠かせない。都合のいいことに、喜んで茶を点ててくれる人も知っている。
 というわけで、休憩時間を長めにとって、抹茶と高級和菓子のサービスをすることにした。
 これで1,000円。文句を言う人がいたら、それはよほど心の狭い人だ。

[企画者Mのメモ]
 さむい朗読はよく経験する。聴くたびに、聴くんじゃなかったと後悔して、甘いものをやけ食いして忘れることにしている。
 仏頂面して教科書をぼそぼそ読む少年。
 市立図書館で、かけまわるガキどもに無理やり聞かせる「読み聞かせ会」。
 某ラジオ番組の、ギャハハ笑いの間にはさまれる、ちょっと有名な歌人のへたくそな読み。
 さむざむしい会議室で蛍光灯のもとで激情的にマスターベーション的ポエトリー・リーディングを披露する女。
 聴かされるほうは、たまったものではない。
 しかし、今回、何の因果か、「朗読会」なるものを企画してしまったのだ。あとには引けない。意地でも、さむい朗読はしたくなかった。

2.「朗読」と「語り」

 「朗読」と「語り」を混同する人は多いが、実際は似て非なるものだ。簡単に定義すると以下のようになる。

「朗読」とは──
テクストを声によって正確に、かつ聴衆に心地よい形で伝えること
「語り」とは──
テクストに演者の解釈に基づく感情表現を付加し、聴衆に提示すること

 今回の朗読会においては、第一部の短歌及びエッセイを「朗読」、第二部の小説を「語り」で読むことにした。

 朗読における「正確」さとは、あくまでテクストに忠実であるということ。余計な解釈や、感情表現は徹底的に排除しなければならない。
 今回、余計な解釈や、感情表現を排除する手段として、センテンスの文法的内部構造のみを忠実に声で表現する「立体読み」を導入した。
 「立体読み」とは、文脈や内容に関わらず、文節単位での「修飾<被修飾」という基準にのみ従う朗読法である(文節とは、言うまでもないが、文の意味上の最小単位である)。
 一見単純だが、やってみると実に不自然で難しい。例えば、センテンス内で修飾と被修飾の関係が収斂する先、最も強者となるのは述語だが、日本語の構造上、述語は文の最後に現れるのがほとんどだ。何も考えずに話すと、たいてい述語のころには息が足りなくなっていて、音が小さくなったり早口になったりするものだ。それをこらえて、むりやり強調しなければならない。
 技術的な面はさておき、「立体読み」をすると、修飾語が弱められる一方で、主語・述語といった文の根幹がクリアに浮かび上がる。さらに、文節内においても、名詞等の自立語は強められ、助詞等の付属語は弱められるため、朗読者の持つ独自解釈が入り込む余地は、全くといっていいほど、ない。
 構造が甘い、あるいは中身が薄い文だとあっという間に破綻が露顕する、非常にシビアな朗読法であると言えよう。しかし、きわめて論理構造が明快な荻原裕幸さんの短歌なら問題ないと演出は判断した。

 テクストに「演者の解釈に基づく感情表現」を付加する「語り」は、演劇人である空中サーカスにとっては、慣れ親しんだ手法である。
 ただ、観客との距離が非常に近いことを考慮して、完全芝居モードで演じることは避け、さらりと読むことにする。この朗読会で提供したいのは、血沸き肉躍るエキサイティングな興奮ではなく、あくまで、上質な文学サロン的空間だからである。

[演出Nのメモ]
 第一部の朗読用テクストをもらって最初に考えたのは、五七五七七のリズムで読むことと、一行のポエムで読むことの、どちらを選ぶべきかということでした。
 五七五七七で読むほうが一般的で、より簡単なのは分かっていました。しかし、そんな当たり前なことをやって、お客様からお金を頂いてもいいのでしょうか。また、五七五七七で読むことにより、荻原さんの短歌に句またがり・字余り・破調が多いことを強調しかねない、と思ったのも確かです。
 なお、一首を二回ずつ、両方のパターンで朗読するという案もあり、個人的には非常にやってみたかったのですが、上演時間の都合で(約25分のびます)断念しました。

 次に考えたのが、いかにテクストを尊重するか、です。
 普段私が演出している演劇では、いかに役者や演出家の自己主張をテクストに混ぜ込むかが問われますが、今回のイベントが「朗読会」である以上、独自解釈をいかに排除するかが問題となってきます。
 そこで考えたのが、「立体読み」。誰もが一度は考えるかもしれないけれど、まともな役者や演出家なら絶対に手を出さないであろう、きわめて難しい朗読法でした……

3.人前で朗読する資格

 仮にも人前で朗読するなら、人様にお聞かせしても恥ずかしくないよう、最低限の稽古はするべきである。
 「夏の終わりの朗読会」の稽古期間は約4か月だった。実質稽古時間数は200時間。本番の100倍以上を費やした。
 長すぎるだろうか? いや、お客様に対する礼儀として、当然である。作者が、自作を読む場合などは特に、そこには作者の意図が表れるはずだと信じて、盲目的に拝聴する聴衆がいる。それに甘えず、朗読者は、文字情報に頼らず、音声表現でそれを余すところなく表現できるだけの技量は身につけて欲しい。
 マイクテストも行われずにぶっつけ本番で行う朗読。発声練習も行わずに声が十分出ないコンディションでマイクに向かう朗読者。客席の雰囲気はおろか、「場」の空気を支配する音響も、吟味せずにかけるBGM。おいおい、という感じである。オープンマイク形式、これは一番のくせものである。どんなレベルの低い演者が出てくるか、分かったものではない。おそろしや。と、これは、演劇集団空中サーカスの意見です。

4.歌人・俳人と一般聴衆との乖離

 観客が舞台上の役者を観るように、役者もまた舞台上から観客を見ていることを、ご存知だろうか。
 今回の朗読会における、朗読者から見た聴衆の様子について考えてみよう。
 聴衆も「場」を構築する重要な要素なのだが、今回は、いささか肩透かしをくらった感が否めない。

 正直言って、客席の歌人・俳人の反応は鈍かった。呆然としている人。下を向いてウトウトしている人。
 短歌は、「五七五七七に区切って読むべし」という先入観によるものだろうか? いや、それだけではないと思う。

 一方、一般客や、演劇人は、「場」を無条件に受け入れる柔軟性があった。開演前にかかっているBGMのバッハを聴いて、「あぁ大声でおしゃべりしちゃいけないんだな」と慎むくらいの感性はあった。
 短歌なんて読んだこともなく、興味もないのに、真剣に聴きいっている。
 めったに文学に触れないおばちゃん連中(失礼、お茶汲みLadies)などは、「うわぁ、文学に浸る企画なんて素敵! 心の贅沢! 楽しいわあ〜」ときゃぴきゃぴと騒いで帰っていった。

 純粋に文学を楽しんで帰った一般客と、日ごろから文学に慣れ親しんでいる筈の歌人・俳人の鈍い反応の差には、正直言ってこちらもとまどっている。
 レベルの低い朗読をしたつもりはない。実際、稽古場で、劇団員の4歳になる幼児が、「アグニの神」(約20分)を練習している役者Mの隣に座って、じっと聴き入っていた。幼児さえもひきつける力のある朗読が、受け入れられない、とすれば、それはそちらの問題であるとしか言いようがない。
 何故、彼らは耳をふさいでしまったのだろう?
 これは、私たちが問われる問題ではなく、聴衆としての彼らが問われるべき問題である。

 さらに、問いは私たちにも投げ返される。
 短歌の朗読会とは、一体誰のためにあるべきなのか? 歌人と一般大衆の、どちらを向けばいいのだろうか?
 歌人たちの社交場としての朗読イベントの存在意義は否定できない。ただし、それはクローズドな場所となってしまう危険性が高い。
 一方で「短歌を朗読してくれるなら聴く、でも読むのは面倒くさい」という人もいるだろう。短歌を朗読するということは、今まで目で読んでいた短歌の媒体を変えること。今まで短歌に興味のなかった層も取り込める可能性がある。短歌の世界の裾野を広げる上で、きわめて有意義な手段の一つと言えるのだ。
 今回の朗読会における観客の反応の差が象徴するように、現在の短歌界の現状において、歌人たちと一般大衆との乖離は憂うべき課題である。
 今後の朗読イベントのあり方を考えることが、その課題の解決の手がかりとなるのではないだろうか。

 ささやかながら、レポートをまとめてみた。このレポートがどのような波紋を呼び起こすのか、もしくは全く波紋をつくらない一石になるかも知れない。けれども、声を挙げずにはいられなかった。
 ここまで読んで下さった方に感謝し、謹んで、筆を措く。

◇ ◇ ◇

参加者による個人レポート

山本真紀 wrote:

 朗読嫌いの私が、何故、このような企画をしたかというと、ひとえに、ファン心理の暴走した結果である。国語の教師でありながら、短歌も俳句もそう好きではなかった私に、初めて「いいなあ」と思わせて下さった荻原裕幸さんと、出会ってみたい。お話ししてみたい。私たちが朗読するといえば、もしかして来ていただけるんじゃないか。そんな邪心にみちた動機で、はじまった、この企画。一番の被害者は、役者Dだったかも知れない。
「やっぱ、男歌は、男声で読まないとね〜」
「三十代、サラリーマン、男性。日常に疲れ気味!? イメージ近い近い!」
てな感じで、Dをむりやり企画に巻き込んでしまった。すべての子音の発音がおかしいというハンディキャップを背負ったDが、どのような艱難辛苦の果てにステージを踏んだかは、本人が語ると思うので、ここでは言及しない。

 稽古をはじめて最初の頃は、たった二首の短歌を、何時間も繰り返し唱えることですぎていった。
「宥されて」
「もう一度」
「宥されて」
「ユが弱い」
「宥されて」
「ルが消えた」
「宥されて」
「やけくそに怒鳴らない!」
 唱えるほうも苦痛だが、じっと耳を澄まして聴いている演出Nのほうが、もっとつらい作業だっただろう。けれども、演出はあきらめなかった。ウォーミングアップを除いて一日約5時間の稽古を、ただひたすら、私の微妙な声のトーンや発音の違いに熱意をかたむけるという、拷問とも思える時間を共にたえぬいてくれた彼女に、心からの感謝を捧げる。
 私の発声の特徴は、但馬弁特有のヨーデルのような抑揚の激しさと、子音が弱く母音が強調される発音、そして、イ段・ウ段が苦手なことである。いつまで経っても明瞭に「宥されて」が発音できない私に、演出は、それこそ、思いつく限り、ありとあらゆる手法を試した。一音ずつ区切って、叫ぶ。百人一首かるたの読み手のように、詠じる。観世流謡の発声を用いて、朗誦する。少しずつ、滑舌がよくなってきたな、と自分でも感じはじめたのが、7月の半ばだった。すでに、稽古開始から2か月が過ぎていた。

 演出Nが、「立体読み」を提唱したのは、私とDという、やっかいな朗読者に対する苦肉の策ではなかったのか、という疑いは捨てきれない。もちろん、荻原裕幸さんの短歌の、わざと読みづらくしているのかと思われるほど、日本語の発音に無頓着な音の並びに対抗する意味もあっただろう。

宥されてけふも翡翠に生きてゐる気がする何が宥してゐるのか

 五七五七七に区切ると、各句の最初の音は、「ゆ」「きょ」「い」「き」「ゆ」となる。この中で、強勢で発音できるのは、「きょ」だけ、後はどうしても強く発音できない。各句の前に間をおいただけでは、句頭の音自体の弱さをカバーしきれない。子音を強くする、音量を上げる、高いトーンで発音する、ゆっくり読む、いろいろ試したが、駄目だった。とても音読に向いた歌とは思えず、途方に暮れた。
 たとえば、
「地球儀」
「不思議」
などの単語を、歌の中で主眼となる重要な語句として用いるとする。視覚的に文字情報によって黙読された場合、これらの語句は、読者の頭の中で文意が整理されるなかで、アクセントつきで受け止められるだろう。しかし、音読によってアクセントをつけようとすると、やっかいである。
「チ球儀」
「フ思議」
と、母音無声化現象によって、最初の音が消えてしまい、どうしても強くは発音できない。また、イ段・ウ段や、ナ行・ヤ行・ラ行などのやわらかい子音ではじまる語も、同様に、最初から強勢で読むことは不可能である。
 こんな語句が、キイワードになっていたり、五七五七七の句頭におかれていたりするのだ。それも、しょっちゅう。断言しよう。荻原裕幸の短歌は、朗読には向いていない。

 朗読が、「ライブ」である、という意見には、反対だ。たしかに、朗読の会場によっては、客の顔が見えるから反応を窺いつつ演ることもできる。しかし、ライブだからといって、練習せずにいきなりぶっつけ本番、というやり方には反対だ。ひとさまにお聴かせするのだから、またお金を頂く以上、百本ノックくらいはすべきだ。
 つらいつらい朗読の稽古を通して、私が得たものは、実にかろやかにまわる口と、いきいきとしたダイナミックな表現ができる声。芝居の公演を一本やるより、得るものは大きかったのではないか、とさえ思う。
 稽古半ばから、実は、声に出して読むことがたのしかった。読んでいて、笑い出したいような気分で、テクストに向かい合っていた。今や、私は朗読が嫌いではない。むしろ、大好きと言っていいくらいだ。休職中の現在は、人前で朗読する機会はそうないのだが、復職してから授業で朗読するのが、楽しみだ。思う存分、本気で、たのしく読んでやろう。そして、生徒たちの目がかがやくのが見たい。
 演劇人も、素人さんも、朗読を一度お試しあれ! ただし、本気でね。百本ノックは必須だよ。

今井大 wrote:

 生まれてから数十年、日本語以外を生活に使ったことはありません。にもかかわらず、今回の「対戦相手」は日本語そのものでした。
 もう少し正確に記すと「自分の中の日本語」と「皆が使う日本語」との差を認識させられた場でした。

 日常・非日常を問わず言葉を発するのは、自分の意思表示が唯一の目的です。それが世間話であっても、会議やプレゼンテーションであっても、あるいはお芝居の中の役者であっても、です。
 これらは全て「自分の中の日本語」を使ってきました。
 自分の意思を伝えるには自分の言葉でなければ伝わらないからです。
 ところが、今回のお題「聞き手に正確に伝える」となると、ココまで違うものかとのた打ち回る結果になりました。

という自分の中の認知構造のため、誤読が頻発しました。
 加えて、あまり口の回らない私が意思表示のためだけに育ててきた発声上の悪癖も、意思を排した表現には大きな障害となりました。
 言葉は、元々意思の中から湧き上がってきて文字なり音声になったものであり、おそらく一人ひとりが独自の「日本語」を持っていて、それが個性の一部として発露していると考えています。
 そういった個人の差異を乗り越えて前提無く不特定の聞き手に予断無く伝えるには共通の言語に基づく必要がある、そのためには意思伝達としての言語ではなく、情報伝達としての言語精査が不可欠であることを実感したのが今回の朗読会でした。

山本奈穂子 wrote:

 「朗読」の定義は人それぞれだと思いますが、私は「テクストを声によって正確に、かつ聴衆に心地よい形で伝えること」だと考えています。
 この「正確さ」というのが結構くせもので、文字通り読めば正確なのか?と言われると、そうではありません。力量ある演出家や役者の手にかかれば、作者の思いもよらぬ解釈を付加することは容易ですし、あるいは読解不足でうっかりどうでもいい単語を強調してしまったりすることもあります(結構そういう例を見たことがあります)。
 今回、そういった独自の解釈を排除する手段として、センテンスの内部構造のみを忠実に声で表現する「立体読み」を導入することにしました。
 「立体読み」をすると、修飾語が弱められる一方で、主語・述語といった文の根幹が浮き上がります。さらに、当日のアフタートークでは時間がないため端折りましたが、文節内においても、名詞等の自立語は強く、助詞等の付属語は弱くなります。
 こうやって書くと簡単そうに見えるかもしれませんが、実際には実演するには、文節単位どころか、一音単位で、母音と子音の検証をする必要がありました。ばらばらの音のつらなりが単語になり、文節になり、センテンスに組み上がるまで──、執拗とも言える私のチェックに耐えたMとDには、心から賞賛を送りたいと思います。

 さて、ここで、荻原短歌を朗読する上で困った点を一つ。

50音図

 上の図にあるように、ハ行・イ段・ウ段は一般的に苦手だったり弱かったりする人が多いのですが(もちろん個人差はありますので例外もありますが)、荻原さんの短歌では、その強調しづらい音で始まる単語がキーワードであるパターンが頻出するのです……。
 例として、連作『ポケットエンジェル』の最初の三首をあげます。

 三十代のみどり静かにみちわたり微かにぼくがゐることを識る
 目覚ましがはりのソフトは二十二世紀のLAの空を奏でる雲雀
 睡蓮をも革命できずにゐるうちにみづいろ系の朝がまた来た

 特に一首目の「──みどり──みちわたり──ゐる──識る」は典型的な例かもしれません。また、二首目と三首目も、センテンス内で最も強者である文節は「雲雀」と「来た」です。
 役者にとって非常にいい訓練になったのは確かですが、荻原さんの好みが「みづいろ」や「みどり」じゃなくて「あお」とか「こん」だったら良かったのに、と思ったのも事実です(笑)

 普段私が演出をやっている演劇では、独自解釈をいかに加えるかが問題となってきます。対象である戯曲も、役者や演出家が自分らしさを足せるように、遊びの部分を考慮して書いてあることが多いです。(全てを台詞で説明している戯曲もありますが、非常に演じにくいし、演出しにくいものです)
 ですから、今回の「文学作品として既に成立している」短歌を「朗読」するという経験は非常に珍しいものでした。
 一番の驚きは、同じ作者の作品を同じ演出家のもとで論理的に立体読みしているはずなのに、役者の個性はそのまま残っている、という点でしょう。単独ではなく二人で朗読した連作『ポケットエンジェル』で、それは顕著でした。どうやっても反発してしまって、お互いに歩み寄ることも出来ないのです。「演技なら似せられるけど(※)、朗読では無理みたい」と言ったMの台詞が印象に残りました。 (※DとMは舞台で母と息子を演じたことがあります。ちゃんと親子に見えました)

 最後になりましたが、未知の役者と未知の演出家に快く朗読の許可を下さいました荻原裕幸さん、そしてご来場下さった皆様に、心よりお礼を申し上げます。

備考:荻原短歌に現れる記号の処理について

 「ウッドストックの憂鬱」
 この連作に登場する☆や★は、字面から鉄琴を選びました。メロディー(というほどのものではありませんが)は稽古場で適当に叩きながら決めていきました。
 使用したのは、山本姉妹の実家に昔からあった鉄琴(教育楽器)です。

きらきら光るものが多いこの街では、彼のお喋りも、☆☆☆☆☆(*1)とか★★★★★(*2)なんて感じになるに違ひない。

☆☆☆☆☆(*3)/うんうんそんな言葉なら解りやすいよセールスくんも
☆☆☆☆☆(*4)/雪が降るまで屋上で待つのか?今はまだ五月だらう
★★★★★(*5)/わかつたぼくが悪かつたきみの紅茶はもうとらないよ
*1楽譜
*2楽譜
*3楽譜
*4楽譜
*5楽譜

 「ポポポポニアに御用心」
 アルファベットの部分は、当初、タンバリンを叩いてみたり、色々試行錯誤を繰り返しました。しかし、どうにも声と相性が悪かったため、どうせなら全て朗読者が自力で出来るように持っていこうと、こういった形になりました。

月曜日の朝かへり来て酩酊にノブのQOQOQQOQQOQ(*6)
恋人か蛇か何かがわが前をRRRRRRPRRRPRRR(*7)
*6 ノブの ノブの ノブの
 ※デクレッシェンド(decrescendo)をかける
*7 RuRuRu・RuRuRu・PuRuRuRu・PuRuRuRu


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